3月25日に開催された類塾×ひきたよしあき特別講演会「親も子も話すこと、書くこと、自分が好きになる!〜言葉のマグネットで自分の言葉の世界をひろげよう〜」に先立って行われた、ひきたよしあきと、齋藤 仁巳 先生(株式会社類設計室 教育事業部 次長/文系講師)、山根 教彦 氏(株式会社類設計室 経営統括部 経営企画課長/人材課長)との鼎談のもようを、5回にわたってお届けします。

今回は第3話「探求しよう/シンプルに自分が思ったことを素直に書けることがだいじ/社会の中での読解力も身に着けたらもっと楽しくなるよ」です。

左から、齋藤 仁巳 先生、ひきたよしあき、山根 教彦 氏

【目次】
第1話 入試の先にある言葉の使い方/体験のストックをして、そしてそれを考えた経験があるか
第2話 親は自分の子の良い点を探す力が発揮できているか/エールを贈る
第3話 探求しよう/シンプルに自分が思ったことを素直に書けることがだいじ/社会の中での読解力も身に着けたらもっと楽しくなるよ ←いまココ
第4話 言葉を駆使して生きる力/体と心と頭がつながった言葉/大谷翔平のどこが素晴らしいかということを僕たちは教えていかないといけない
第5話 イタリアの校長先生の言葉/好きな色を自由に決められることが勉強/みんなが笑って暮らせる国へ

■■探求しよう/シンプルに自分が思ったことを素直に書けることがだいじ/社会の中での読解力も身に着けたらもっと楽しくなるよ■■


ひきた 類塾に「探求」という言葉があるじゃないですか。僕あれキーワードだと思っているんですよね。探求というのはどういうときに使うものなんですか?

齋藤 もともと類塾は「受験の先にある将来に生きる力」というテーマで50年間やらせていただいてきたのですが、時代の変化とともに2016年に「探求講座」という授業が始まりました。受験や教科を超えて、子どもたちが社会のこと、将来のことを探求していくことは言語能力の引き上げにもつながります。

類塾において探求は2つあると思っていて、1つは「先のことを考えてこれからどうするか」ということ、2つ目はそれよりも大切な「先人たちの知恵がどのように蓄積されていまに至ったのか」ということ。自然界の中での人類の歩みから、人類社会というものの事実を自分の価値観にとらわれず、事実のみを見据えてみんなで議論しあう、追求する場を、類塾では探求というふうに位置づけています。

山根 先日、類設計室のほうで『類設計室創立50周年 本源から未来をつくる』という本を出したのですが、たぶん社風として、なに?なぜ?と根本に立ち戻って考える精神が創業以来あって、それを教育の場でもやってきたんだと思います。

『類設計室創立50周年 本源から未来をつくる』

ひきた 僕はこの間授業を受けたときにすごく面白かったのは、何か1つのテーマについて先生が「もうちょっと探求してみようか」と言うと、子どもたちがその言葉に反応して自由に発言しはじめるわけ。ここから先はバラバラの答えでしゃべっていいんだというふうになって、自分の小さかったころの話とか、この間行った旅行の話とか、話がずれていくんです。

そこまでは正解を求める授業だったのが、「探求しよう」と言った瞬間からは、答えなしの世界で発言して構わない、オレの探求はこう、私のはこう、というふうになる。それは自分の過去の経験とかに戻るだけなんだけど、そこからが類塾っぽくなって相当面白い。これちょっと博報堂のクリエイティブワークに近い。あの「探求」という言葉が、不思議なパワーを出しています。あれはたぶん、決められた答えに向かって話を進めるわけじゃないからですよね。

あのときにすごく開く感じがする。あの、探求しようと思ったところで本を読みだすと読めるようになると思うんですよね。正解を見つけようとする読解力はそこまでですけど、探求してみようと思ったときに本を開いたら「あ、これはオレの思っていた答えに近い」というような実感があると思うんです。そこの前で止めてしまうと、僕は読解力が付かないと思います。

類さんが考える探求というのはすごく高尚な考えがあるんだけど、子どもたちにとっては「ここから先は自由」みたいな発言になっていたのは、良い仕組みになっていると感じました。

山根 よく「はい2分追求」とか言うんですよね。そうすると2分間しかないものだから子どもたちは待っていられなくてしゃべりだす。そのとき、反応を返すというのもだいじにしていて、誰かが何か言ったら、「うんうん」とか「んー?」と反応すると、発言している人は話しながら「あ、これちょっと違うかも」と思って考えなおしたりする。そういう場もけっこう大切にしています。

類塾ホームページより。

ひきた 探求の不思議な力。僕は一番感じます。

齋藤 学校のグループワークとは少し違いますし、本当、不思議な力ですね。それによってそのあとの議論の雰囲気が変わったり、よりリアルな気持ちを出すことでむしろそっちのほうが本質というか、正解に近づく気もしますし。

ひきた 僕、高校生のいろんな審査をしているんですけど、たとえばSDGsについて話し合ってくれというと、「これはSDGsの17番に入っているよね」とか「この話題の中には8番と15番と17番が入ってます」というふうに分析が始まるわけです。新聞記事を見た瞬間にSDGsの番号のチップをポンポンポンと置けるくらいの知識がある。

またあるときは新聞が張り出されていて、その下にSDGsの番号チップがあって、その新聞記事はSDGsにおける何の話かとチップを貼っていく。それは新聞記事の読解力を深めるという授業なんですけど、記事内容を読んでいるかというと、僕にはそう思えないんだよね。間違っているとは言わないけど、そこばかり行ってしまうと、それはある一定のところまでは有益に働くけど、それこそ受験の先にある社会に出たときにはほとんど意味がなくなるんじゃないか。本源追求からはずれてしまうかな、と。

それはいまのSDGs教育が入試対策になっていて、ある話題に対してこれはSDGsの何番だって言えるような能力を高めているからだと思うんですよね。で、そういう高校生が書く論文というのは、分析力には長けているのだけど、ジェンダー問題や地球温暖化など、SDGsの本質について語るというところまで行かないんです。それは明らかに追求、探求までできず、分析で終わっているからなのではないかという気がします。

齋藤 そうですね。作文もそういう作文になってしまっていて、でも入試を通るためには、ある程度そういう入試の型をクリアしたほうがいいという面もあるんですけど、やっぱり子どもたちが、自分が書く作文にどこか心が乗っていないので、本当にこれでいいのかというふうにとまどうというところも。やっぱり自信を与えていくということが必要ですね。

さきほどおっしゃっていた、読むとか書くというのはすごくシンプルにやっていかないといけないというのはどういうことですか?

ひきた 読むとか書くをシンプルにするというのは、基本的に「どこにジーンと感じたか」がわかることだと僕は思っているんです。それを、これが正解、これは不正解ってやっていくと、読み方が変わっちゃう気がします。

ある審査で、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』の感想文を読んだんです。あの話、蜘蛛の糸を伝って地獄から天国に行こうとしていたカンダタが、また地獄に落ちちゃうじゃないですか。それに対して「結局、お釈迦様はカンダタを助けなかった」と書いた子がいたんです。カンダタじゃなくてお釈迦様に視点が当たっているわけです。で、あの話は極楽の朝の場面から始まってお昼で終わるんですが、その感想文には「このとき、お釈迦様はどんな気持ちでお昼ごはんを食べたんだろう」と書いてあるんです。

一同 爆笑。

ひきた 芥川龍之介をそういうふうに読むってすごいじゃない。すごい能力なんだけど、これは正解か?という話になると、たとえばそれを入試で解答したら不正解だったりするわけです。でも本当は、そういうふうにシンプルに、自分が思ったことを素直に書けることがだいじだと思うんですよね。

それは博報堂財団に寄せられた感想文だったんです。僕はいろんなところで作文や論文の審査をしていて、たいていのところはしっかりとした審査基準があるんですけど、博報堂財団のはそういうのがないんです。だからその感想文みたいにユニークなものを選ぶことができるんですけど、審査基準があるとそこに合わせて子どもたちは書いてきます。

齋藤 そうですね。ただ、合わせなくていいよというのも違うと思いますし、受験する子もいるわけで、だからそれはそれでクリアさせてあげつつも、やっぱり本当に読解する、社会の中での読解力も身に着けたらもっと楽しくなるよ、ということを子どもたちに感じてもらえればいいなと思っているんです。まずは僕ら自身がそうなっていかないといけないですね。

第4話 言葉を駆使して生きる力/体と心と頭がつながった言葉/大谷翔平のどこが素晴らしいかということを僕たちは教えていかないといけないへ続く。