3月25日に開催された類塾×ひきたよしあき特別講演会「親も子も話すこと、書くこと、自分が好きになる!〜言葉のマグネットで自分の言葉の世界をひろげよう〜」に先立って行われた、ひきたよしあきと、齋藤 仁巳 先生(株式会社類設計室 教育事業部 次長/文系講師)、山根 教彦 氏(株式会社類設計室 経営統括部 経営企画課長/人材課長)との鼎談のもようを、5回にわたってお届けします。
今回は第5話(最終話)「イタリアの校長先生の言葉/好きな色を自由に決められることが勉強/みんなが笑って暮らせる国へ」です。
【目次】
第1話 入試の先にある言葉の使い方/体験のストックをして、そしてそれを考えた経験があるか
第2話 親は自分の子の良い点を探す力が発揮できているか/エールを贈る
第3話 探求しよう/シンプルに自分が思ったことを素直に書けることがだいじ/社会の中での読解力も身に着けたらもっと楽しくなるよ
第4話 言葉を駆使して生きる力/体と心と頭がつながった言葉/大谷翔平のどこが素晴らしいかということを僕たちは教えていかないといけない
第5話 イタリアの校長先生の言葉/好きな色を自由に決められることが勉強/みんなが笑って暮らせる国へ ←いまココ
■■イタリアの校長先生の言葉/好きな色を自由に決められることが勉強/みんなが笑って暮らせる国へ■■
ひきた 以前イタリアの田舎町に行ったら村の人たちがすごく歓迎してくれて、みんなでワインを飲みながらワイワイとごはんを食べたの。そこにはその村の学校の校長先生も来ていたんだけど、そのときに話してくれた言葉にめちゃくちゃ感動して。なにかと言うと、「イタリア人の教育の目的は愉快に暮らすことだ」と言うんですよ。「生涯を通して愉快でいるために勉強するんだ」と。いい大学に入るとか、出世とか、お金儲けなんかとは別次元の価値観です。
ものすごく腑に落ちて、その校長先生から学んだ「愉快に生きることが教育の基本」というのが僕の中にはすごくあるんですよね。いま自分は愉快かどうかを感じる力、もっと愉快になるにはどうしたらいいかという、いわば愉快力。これがイタリア人の本源追究だと思うんです。
一同 いいですねぇ。
山根 類塾も、「生き抜く力を育てる」と言うんですけど、その先も言葉にできたらいいなと思ってて。「愉快に暮らすため」って思うほうが幸せだなあ。(笑)
ひきた 誰もが思ういい言葉だよね。その校長先生はそれを信念にしていて、子どもたちが愉快に生きるためにはどうしたらいいかという話もしてくれたんですけど、美術に力を入れていて、絵も描かせるし、彫刻もさせる。あと、そこでは小学校6年生になると、自分のラッキーカラーを決めるというんです。みんな水色とかピンクとか決めるんですけど、「私は薄いピンク」とか「私はグレーがかった水色」とか、10人いたら10通りのピンクや水色を選ぶ。
そこには正しいとか、正しくないとか、忖度とかない。みんな1個の、個性を持った色を選ぶんです。僕はそういう、自分の好きな色を自由に決められることが勉強だと思うんですよね。類塾が最終的に向かうのが、愉快に生きて、それぞれの色を決めて、隣の人と違ってもいいんだよということになっていくといいなと思います。
齋藤 いまの話で思い出したのは、国語の話で言うと『銀の匙』の授業で有名な灘高校の橋本武先生。橋本先生が、「ゆとり教育というのは、教養のつめこみをすることによって、生きる上でのゆとりや本当の意味での豊かさというのが生まれる教育」ということをおっしゃっていたんです。橋本先生は『銀の匙』を通じて彫刻からなにから、生徒たちに全部経験させるんですよね。国語教育だけにとどまらない。教科を超えて学ぶということ、体験させるということは、これからの教育にすごく必要なことですね。
ひきた あれは圧倒的に強い。学校というよりは塾、松下村塾みたいなものだよね。さっきの愉快もそうだけど、本源をどこに置くか、どこまで本源追求するかができてくると自分の芯ができる。これから先、どんな商売が流行って、どんなものが廃れていくかわからない時代に、たとえば「お金とは何か」という本源追求ができていないと、「金持ちが偉い」とか「人生勝ち組、負け組」とか、そういうものに惑わされるようになってしまう。そうではなくて、「お金とは自分にとって一体何なのか?」と考えられることがだいじだと思うんです。
齋藤 それはお金の仕組みを学び、そして自分とどう結びついているかということを学ぶということですか?
ひきた そう。お金と仕組みについては、いまは小学校に金融のプロが来て教えたりしているけど、それだけだと「これが儲かるぞ」「今度はこれだぞ」という話になりかねない。そうではなくて、そもそも自分にとってお金とは何だ?というところを学ばないと。仕組みやこれからの流行ばかり憶えてもダメだと思うんです。
僕は小学校のときに、藤原塾という塾に通っていたのですが、そのときに先生が「算数とは物事の順番を決める力をつけることだ」と話されたんです。論理というのは、プライオリティというか、何から順番に解いていくか、じゃないですか。だから物事の順番をつける力が算数だって話してくれたんですね。それって、その先生が考える算数の根源だと思うんです。算数を勉強する意味を、その一言で教えてくれた気がしました。
本来学校では、そういうことを教えることがだいじだと思うんです。『ドラゴン桜』に「英語は度胸だ」という言葉があるんです。英語は何を学んでいるのかというと、あれは度胸を学んでいるのだと。違う国の人と話すときにたくさん言葉を知っているほうが度胸がついてケンカがしやすいんだというようなことが書いてあったんだけど、あれも本源だと思うんです。これから先、本源力のようなものは、なにかにつけて必要になってくるんじゃないかなと思う。
齋藤 学びの本源というものを、どこに据えてあげるのがいちばんいいとお考えですか?
ひきた 僕は「愉快」に近いところがあると思います。「みんなが笑って暮らせる国へ」というのが僕のスローガンなんですが、「人も自分も笑って、どう人を愉快にできるか」というところが学びの本源だと考えています。
山根 類塾の「活力ある社会を作りたい」というのは、たぶん同じ思いです。活力ある子を作りたいし、社会も人もみんなそういうふうにできたらいいなって。本源追求の軸はだいじにしながら、未来に進んでいくということをやっていると思います。
齋藤 大人が軸をどこに据えるのかということと、子どもたちにどのようになってもらうのがいいかということは、やはり指導する人たちがもっと一体にならないと、なかなか大変かなと思いました。
ひきた さっきのイタリアの校長先生はみんなに「愉快か?」「愉快か?」って聞きながら学校を運営しているんです。すごいよね。
――きっとそういう社会だと、愉快じゃないときに愉快じゃないって言えるんですね。
ひきた そうそう。「いま僕は愉快じゃない」って誰かが言うと、みんなが「どうしたの?」「なにがあったの?」という話ができるんだと思う。
面白い話がもう一つあって、フランスワインというのはそれぞれの土地があって、そこの湿度とか土の質とかを計算して、きれいにワインを作っているじゃないですか。そんなフランス人がイタリアに来ると「あそこはヒマワリと一緒にブドウが植えてある、信じられない」って言うんですね。ヒマワリってめちゃくちゃ土地の養分を吸い取っちゃう。そんな横でブドウを育てたっていいブドウは育たないからダメだって言うんだけど、イタリア人は「きれいな景色じゃないか」って。
一同 爆笑。
ひきた 「ここは神様に愛されている土地なんだから美味しいワインができるに決まっているじゃないか」って言うわけ。イタリアとフランス、どっちが正しいのかわからないけど、どっちが好きかはわかるよな、みたいな(笑)。
聞くと、土地がすごく肥沃なのでヒマワリが植わっているくらいじゃ全然影響ないらしいんです。陽射しもたっぷりあるし。それに比べると、フランスの土地はそこまで肥沃ではないから、それはそれで美味しいワインができるんですけど、フランスでワインを作っている人は、たぶん愉快じゃない。
齋藤 話は変わりますが、子どもたちに自信を持ってもらうために、ふだんから心がけていらっしゃることや大学で講義をするときなどで意識されていることってありますか。
ひきた 若い子はよく、自己否定のようなことをエクスキューズとして言うんです。「自己肯定感」という言葉があるじゃないですか。あれって20世紀になって出てきた言葉なんです。90年代の終わりくらいに世界共通テストのようなものやったら、「自己肯定感が高いか?」という項目の点数が日本は低かったんです。「日本人は自己肯定感が低い」と大騒ぎになって、そうこうするうちに自己肯定感を上げることが教育目標になった。
ちょうどいまの大学生くらいまでが「自己肯定感教育」をされちゃっているんです。だから自己肯定感の高低をすごく気にする。その言葉が一般的になる前は「自信がある、自信がない」という表現をしていたんです。「算数には自信がないけど体育には自信がある」とか。それだと人格否定にはならない。でも、自己肯定感というと全人格になっちゃうじゃないですか。全人格で評価してしまうところに子どもたちを持っていってしまったんです。
齋藤 では、「自己肯定感」という言葉を使わないということですね。
ひきた 使わない。
齋藤 ひきたさんの著書以外で推薦図書とかおすすめの本はありますか?
ひきた 今日の講義で取り上げるんだけど、僕は谷川俊太郎の詩がいいと思う。スヌーピーを翻訳したのが谷川さんで、スヌーピーの中の言葉というのは僕は心の中に響いているんですけど、それが国語的には生きています。言葉を好きになるには谷川さんですね。読んで気持ちのいい日本語を使うんです。言葉のマグネットを育てるような教育ができるのは、僕は谷川さんの詩じゃないかなと思っています。
あと、言葉の源を調べるというのも僕は好きで、これは先生たちにとってもだいじだと思うんですけど、たとえば「雑談」の「雑」。これはいろんな糸を集めて仕立てられた着物のことなんです。長い糸、短い糸、絹糸、木綿糸、麻糸、黄色もあれば黒も緑もある、とにかくなんでもいいから入れて一枚の着物を仕立てる。いろんなものを束ねて作るのが雑だとわかると、雑談というのは、みんなが集まってなんでもいいから好きなことを話せばいいんだということがわかる。そこでは賢い発言をする必要もないし、途中で意見を変えても、ウケを狙わなくてもいい。NGな意見もない。そういうふうに、雑談ひとつとっても、教える側が子どもたちに言葉の源を教えることができると、なるほどそうなのか、ということになる。これも1つの本源追求ですよね。